夜霞の温度

お手洗いの要らない、男女二人の逢瀬。

空港の清潔な通路を、ゆっくりと歩いていく。はやる心を抑え、優雅に、淑やかに。本当に着いてしまった。理性と秩序を大切に生きてきた。誰もがそうすることでこそ、社会はよくなっていくと信じていた。それでも、空港の外へ出る。辺りを見渡すも、見つけられない。

「失礼ですが、湧水を訪ねるツアーのお客様では。」
かけられた合言葉に、胸が高鳴る。早く振り返りたい。姿形をこの目で見たい。けれど、ただ身体が熱くなるだけ。
「はい。二日間、お世話になります。」
男性は振り向かず、自然と前を歩きだす。無愛想に見えて、ついていく私の歩みが気遣われている。間違いない、この人は彼なんだ。もう戻ることはできない。
「ひとまず、こちらへ。」
数分歩いて、広場のベンチに促される。彼は簡単に名乗り、信用できるかを問うた。そんな気遣いにも、人柄が表れている。すぐに車に乗ってもよかったのに。やはり素敵だ。ここへ来てよかった。たとえ、それが私の矜持との別れであったとしても。

彼が、助手席のドアを恭しく開ける。自分でいたします、いえいえお嬢様にそのような、とわざとらしく笑いあい、私は彼に導かれた。エンジンがかけられる。
「……改めまして、初めまして。」
これまで、多くの回り道があった。顔の見えない場で知り合い、文字だけのやりとりを重ねた。彼の纏う知性や気品は、姿のない交流でさえ、私の心を温めた。そして、その場でしか語れない、秘められた趣味の交わり。私の心に彼が住むのを、止められるはずもない。一時はとても懇意になった。私さえよければ一度どこかで、と誘われたこともある。しかし、やはり特別な世界。それが壊れるのを恐れ、そしてどこかに不安があった。会わないことを選んでからは、少しずつ遠くなっていった。お互いに祝福しあい、さらに時の流れたある日、私はついに耐えかねた。あまりにも満たされなかった。私は必要とされなかった。少し遠ざけたはずの世界が、ふたたび私を飲み込んだ。彼はきっと困っただろう。あれはひとときの思い出として、ただのお友達の一人に、もう戻ったはずだったのだから。ゆっくりとゆっくりと、あのころの距離に近寄っていく。彼の倫理は、それを許さないはずだった。けれど、ここへ迎えに来てくれた。いわく、やはり未練があったのだと。

「私のこと、すぐにお分かりになりましたか。」
空港を出てたちまち、声をかけられた。服装は伝えていたけれど、そんなにすぐに気づくものだろうか。
「想像通りの可憐なお嬢様が、たったお一人でおいででしたので。」
どう考えても気障な台詞に、私はまんまとくすぐられる。文字のやりとりの中であっても、少しいい雰囲気になると芝居がかった口調になる。それがまた、現実から連れ去ってくれる。ここは、あの柔らかい世界だ。
「十一時四十五分着とお聞きしましたので、少しの時間差を考えて、あとは首を長くしてお待ちしていましたよ。」
二人はついに、一歩を踏みだす。

「……お約束通り、八時ちょうどが最後です。」
念のため、伝えておこう。二人の秘められた趣味、それはお手洗いを控えること。その欲求に身を任せること。それを気取られずに、しなやかに振舞うこと。今日は、初めての逢瀬であり、趣味を楽しむひとときでもある。
「私も、約束は守っていますよ。今日は、隠してのデートでよろしいのですよね。」
「はい、お話しした通りに。」
鼓動が速くなる。今日一日の約束。一緒に素敵なデートをする。ときどき、喫茶店でお茶も味わう。夜にはとっておきのバーを紹介していただけるらしい。けれど、お互いにお手洗いへは行かない。それどころか、行きたがらないことはもちろん、この世にないものとして過ごす。最後、ホテルに着くまでは。けれど、お腹の様子だけは知りたいとのこと。そんなところも、少し可愛い。目的地を知らない車も、私の心を躍らせる。いつもは文字で交わす言葉が、今日は声で続いていく。それだけで、夢を見ているかのようだ。
「そうだ、飛行機の旅お疲れさまでした。簡単ですが、どうぞ。」
五百ミリリットルの緑茶を受け取る。
「お気遣いありがとうございます。」
私は、ゆっくりと味わいながら、ペットボトルを空にした。

しばらくのドライブを終えて、ショッピングモールに着いた。まずはお買い物をするそうだ。降りようとするも制止され、また恭しくドアを開けられ、今度は手が差し伸べられる。どれだけ格好つけるのだろう。その手を取って、私はお嬢様になった。気温の違いは分かっていたが、体感するとやはり涼しい。丸一日のお出かけくらい、行かずにいられる私なのだが、これからに少し不安を覚える。長い外出とあれば、普通は飲みものを控える。今日はこの気温のうえに、水分も摂らねばならない。心臓が早鐘を打つ。少しでも風を避けようと、そばの雑貨屋に興味があるふりをした。

「ご満足いただけましたか。そろそろ休憩にしましょう。」
何軒か回った末に、文房具を見て楽しむことに落ち着いた。これくらいのことでさえ、好みが近いと嬉しくなる。けれど、何も買わなかった。気づけば、もうすぐ三時になる。すっかりデートに夢中だったが、お腹にはしっかりと重みがある。何かが居座っている。けれど、それだけ。どうということはない。この程度の感覚は、日常茶飯事だ。彼はどうなのだろう。彼も人よりは抱えられるが、私ほどではないはずだ。水門を気にしているのだろうか、それとも余裕があるのだろうか。次は喫茶店のはずだが、せっかくショッピングモールにいるのに、駐車場へと向かっている。
「どこか、お気に入りのお店でも。」
「そう期待されると申し訳ないのですが……。」
なるほど、だから車へ行くのか。夢見心地とはこういうことだ。興味を持ってもらえている。会って幻滅はされなかったらしい。思う存分、確かめてもらおう。そして少し、お返ししよう。三度ドアを開けてくれる彼に、私も少し悪乗りをする。
「どうぞ、お嬢様。」
さも当然という表情で、助手席へと腰掛けた。よく考えれば、お嬢様なら後ろの座席ではなかろうか。彼も運転席に腰を下ろす。
「これから、何をなさるのかしら。」
いかにもお嬢様に聞こえるよう、しっかりと抑揚をつける。彼もすっかり執事の顔だ。
「お嬢様のご健康を確認させていただきます。それでは、失礼して……。」
お腹へと手が伸ばされる。お嬢様が執事にお腹を確認されるのは当然だ。それに違った意味はない。優しく、しかししっかりと、彼の手が下腹部に沈む。力を込める。大丈夫。この程度で、どうにかなる鍛えかたはしていない。
「水風船のような感触です。ご健康に心配はないと思います。」
「そう、ありがとう。あなたも確かめてあげましょう。」
お嬢様が執事のお腹を確認するのは、少し変わっているかもしれない。けれど、執事思いのお嬢様なのだ。恐る恐る、右手を彼の下腹部へ。押さえすぎてはいけないし、かといって弱いと意味がない。そっと、ゆっくり押していく。よく凹むが、勢いよく押し返してくる。確かに、これは水風船かもしれない。
「あなたも、水風船みたい。大丈夫ということでしょう。」
顔を見合わせ、微笑み合う。今は彼も同じくらい、それなら少し頑張らなければ。心持多めに水分を摂ろう。できれば、最後のときを揃えたい。
「では、車を出しましょう。」
「その前に、一ついいかしら。」
「はい、お嬢様、何でしょう。」
お嬢様扱いも幸せだ。けれど、それでは越えられない。私は、ただの二人になりたい。

たまに車窓を眺めてみても、やはり異郷の趣がある。
「何か、面白いものでも見つけたの。」
「不思議と、落ち着く景色なんです。」
彼の飾らない言葉遣いは、滅多に見たことがなかった。秘めた趣味の、意地悪をするときくらいだろう。それがこうして、すぐ隣から聞こえてくる。とりとめのない会話こそ、関係の深さと言えるだろうか。何度も出かけてきたような、心地よい二人の空間。これが日常であったなら、私はどう生きるだろうか。さほど時間もかからずに、お洒落な建物が見えてきた。車が止まると、今度こそ自分の手で降りる。立ち上がったとき、ずっしりとした何かを感じた。徐々に、確実に育っているが、まだ安らかに眠っている。気にかけるほどのこともない。
「お嬢様は閉店中なので、今度は自分で降りました。」
「素敵な女性をお連れするのに、当然のことをしただけなのに。」
まったく、仕方のない人である。入口までの短い距離だが、今度は私から手を取った。

艶やかな木目に包まれる、どこか懐かしいカフェである。紅茶とお菓子を二人で頼む。コーヒーはあまり飲まないし、お腹に香りが残ってしまう。
「あっという間に、三時ですね。」
「ここまで、楽しんでくれたかな。」
「もちろんです。」
ダージリンとフォンダンショコラ。華やかな甘い香りが、二人を包みこんでいく。流れ出すガナッシュが、二人を溶かしこんでいく。他愛のない話が弾み、渇いた喉を紅茶が潤す。フォンダンショコラがなくなって、カップに二杯目を注ぐ。いつしかそれも空になり、気づけば四時を回っていた。
「そろそろ、次の場所へ行こうか。」
会話が途絶えたその隙に、お腹が私へ声をかける。いい加減に、気をつけなさいと。紅茶は私の喉だけでなく、お腹も潤していくようだ。それでも、これくらいは慣れたもの。一日済ませられずに帰れば、この程度はよくあることだ。落ち着いて席を立つ。お会計をしようとしたが、上手に言いくるめられてしまった。夕食こそは私が出さねば。

ほぼ同時に座席に座る。長く連れ添ったかのようで、それだけのことがとても嬉しい。彼がじっとこちらを見る。
「少し、膨らんできたね。」
そう言って、お腹にゆっくりと手を当てる。出口は存在しないのだから、押されても負けることはない。少し、強い。そろそろ、満足したでしょう。押されて歪む水風船は、しっかりと縛られているけれど、自然な形を保っていたい。
「さっきは水風船だったけれど、今はボールくらいかな。健康的だね。」
お腹の声を思い出す。
「次は、仰っていたバーですか。」
「ううん、その前にもう一つ、連れていきたい場所があるから。きっと気に入ると思うよ。」
ボールくらい。飲み会の帰りなどを除けば、そろそろ家路につくころだ。飲み会があるときには、隠れて何とか済ませてから行く。今日はこのまま、もう一か所と、その後にバーが待っている。彼はどうなっているだろう。
「目では、あまり分かりませんね。」
お腹をそっと押さえつけると、柔らかい弾力があった。
「まだ、水風船みたいですね。」
着いた直後のペットボトル、それが今の二人の違いだ。
「これくらいで、お揃いだと思うよ。じゃあ、行こう。」
移動にはどれくらいかかるだろう。長かろうと短かろうと、何も変わることはないけれど。

約一時間、ずっと街中を走っていたのに、突然整然とした緑が広がる。その景色に見入っているうち、気づけば車は止まっていた。降りれば、透明なモニュメントが、空と混じり合っている。
「ここ、イサム・ノグチの公園ですね。」
「やっぱり、知ってた。こういう場所、好きかなと思って。」
興奮が冷めやらない。彼の手を引き、公園内を歩き回る。もとはごみ処理場だったと聞く。一度は捨てられた土地が、こうしてふたたび生きている。どこを眺めても作品で、私たちもその一部なのだ。風が吹き、お腹をなでる。私にそっと呼びかける。かつてごみ処理場であったからこそ、この公園はここにある。捨てるべきものを抱えるからこそ、彼と私はここにいる。作品としての感動以上に、私はここに共感を覚える。何かを秘め、それを隠し、知るものがその想いを愛でる。この公園と今の私は、きっと同じものなのだ。ただ一つだけ違うのは、私へは今も運ばれること。作品が魅力的だから、多くの時間は忘れていられる。それでも時折、自然が私の腕を引く。時々人が吸い込まれていく、知らないはずの入口に、気を取られてしまったときなどは。

「ほら、こんなに歩いたのだから、水分を摂ったほうがいいよ。」
彼は鞄からペットボトルを取り出した。鞄を持ってきていたのは、こういう理由だったのだ。お腹が少し騒ぎだす。もういらない、これから帰るだけでももうたくさん。しかし、今の二人には、何も心配することはない。水分を多めに摂ったとしても、気にするものは何一つない。
「そうですね。ありがとうございます。」
遊具やモニュメントを眺め、ゆっくりと外周を歩く。そしてときどき、ペットボトルに口をつける。少し冷たく感じる水が、私の身体を巡っていく。この地中は、不燃ごみの処分場。私の身体の中にもひとつ、お水の処分場がある。大丈夫、まだまだ受け入れられるはず。見たところ一杯であろうと、もっと大きく膨らめる。私はまったく問題ない。飲むたびに呼ぶ声は嘘。

すっかり夕暮れどきになり、そろそろ帰るころだろうか。
「そろそろ時間だ。こっちへおいで。」
やっと、バーの時間だろう。もう十八時半になる。彼がやや早歩きになる。ついていくため、私も急ぐ。身体が大きく揺らされる。まだ水門は平気だけれど、お腹が少しじんとする。それは何も意味しない。ただ、よく飲みものを飲んだだけ。
「ここだよ。」
大きく囲われた、丸い領域。
「そろそろショーが始まるよ。ちょっと急いじゃったから、お水全部飲んだほうがいいよ。」
動いた後に水分を摂らせる、ごく当たり前の彼の一言。あのお腹を触ったのだから、今の私を知っているはず。言葉は返さず、微笑みかけて、残りの三割を飲みきった。ごくごく、ちゃぷちゃぷ、心に響く。そして出たごみは運ばれる。作品となったこの公園と、まだ稼働する私のお腹。あの四文字が、頭を過ぎる。違う、間違い。この世にそんなものはない。誰も必要としていない。彼も私も、知らないものだ。ぐっと自分に言い聞かせる。そう、そう、大人しくしてね。しゅうっ、と大きな音がして、光と水が満ちていく。そして穴の中央から、青白く柱が立ち上がる。美しき水の彫刻。その輝きに心が揺れて、そしてお腹が揺らされる。たしかにまだ大丈夫だけれど、これは少し意地悪だ。彼は平気なのだろうか。彼のほうに目をやると、何事もないように立っている。そうだ。彼は飲んでいない。差をつけすぎではないかしら。今度は水面が揺らされて、水が外へと流れ出る。ぐらぐらと煮立つ貯水池は、まさにこの様子なのだろう。まだここまでにはなっていない。結びつけない。気にしない。太ももを少し押しつけた。水のアーチが下がっていき、ひとときのショーが幕を下ろした。
「綺麗でした。」
「そうでしょう。見せたかったんだ。」
どういう意味で見せたかったの、と世界が戻ったら聞いてみたい。出口はまだ大丈夫でも、お腹の重みが忘れられない。駐車場への暗がりを、二人で並んで歩いていく。一歩一歩が、お腹を揺らす。彼の歩みは軽やかだ。私も努めて普通に歩く。ペットボトルも飲んでしまって、じきに水門が呼ぶだろう。これからバーでお酒をいただく。不安で、胸が高鳴った。

「ホテルに停めて、バーまで歩くね。五分くらいのはずだから。」
口ではそんなことを言い、手はいつの間にお腹にある。彼が押しても、凹みはしない。
「板みたい。硬くなってる。健康な証拠だよ。」
もう、このままでは入れられず、私の身体を押しのけて、手前と上に収めるのだ。
「少し、服を捲ってくれるかな。」
予想よりも直球の指示に、思わず顔が緩んでしまう。そういう目で見られて嬉しい。
「スカート、しっかり食いこんでいるね。代謝がいい証拠だね。」
優しく、膨らみを撫でる。彼の目は男性の目だ。ゆっくり丁寧に触れていく。
「素敵だね。いつまでもこうしていたいけれど、バーの時間もそろそろだ。」
あなたの健康も大切です、と急いで彼のお腹に触れる。ボールのよう、とはこういうことだ。彼も着実に進んでいる。夜道を大人二人のドライブ。お互いのお腹は朝八時から。何気なく乗せてもらっているが、運転に障らないのだろうか。それとも、ペットボトル二本は、それだけの差を生むのだろうか。水門がときどき声をかける。それに私は振り向かない。お腹だけでも十分なのに、ついにこのときが来たのだろうか。まだこれから、一箇所出かけるのだというのに。こんこんと、控えめなノックが聞こえる。たくさんの水が控えているのに、おそるおそるで私に尋ねる。まだダメだよ、静かにしてね。引き下がったように見せて、ノックだけは鳴り止まない。

「もう着くよ。」
十五分は走っただろうか。会話をあまり覚えていない。予想より早いお迎えに、不安で頭が一杯だった。たくさんの飲みものと、彼とっておきの素敵なお店。彼に恥はかかせられない。たとえどんなことになっても、隠し通して帰るしかない。今はまだ、平静でいられる。このくらいなら、経験もある。今日は、ここから飲み始める。それが心を塗り潰す。
「さ、降りて。」
立ち上がると、違う感覚が私を襲う。この十五分、私の身体はしっかりと働いたらしい。はっきりと分かる、あの感覚。この重みを捨てなさいと。どこから捨てればよいかさえ、丁寧に教えてくれる。今日の私に出口はない。そこはただの壁だから、と言い聞かせながら力を込めた。彼に引かれて歩くたび、きゅんきゅんと締めつけられる。これから二人が向かう場所では、さらにそこへと注がれるのに。
「先に荷物を預けよう。」
スーツケースを転がして、まずはホテルのフロントへ。彼がチェックインを済ませ、荷物を預けてくれている。ロビーに、ピクトグラムを見つける。私はさっと目を逸らした。
「お待たせ、行こう。」
まだとぼけていられるけれど、私は実は知っている。あの場所がなぜあるのかを。

「着いた。」
少し路地を入った場所に、落ち着いた木目の扉。これだけで、雰囲気が分かる。彼が扉をそっと開けて、私を中へと促した。この人がマスターだろうか、店員は一人しかいない。
「ようこそおいでくださいました。ご予約お聞きしております。」
「今日は、先日お願いした通りで。」
行きつけのお店なのだろうか。なおさら、恥ずかしいことはできない。テーブルへと通される。陰に隠れて見えないのなら、脚をぎゅっと擦りつけたい。けれど、今日はただ隠すのではない。存在しない世界なのだ。
「ワイン、あまり飲まないんだったね。ワインが有名なお店だけれど、他のお酒も美味しいんだよ。」
メニューを私のほうへ向ける。ヒューガルテンホワイトだ。最初のうちに、ビールを飲もう。
「ヒューガルテンホワイトにしましょう。二瓶頼んでしまいましょうか。お料理は、お任せします。」
茶色い瓶が運ばれてくる。どうぞ、と彼のグラスに注ぐ。とく、とく、とく。脚が動きそうになる。黄色いビールがふつふつと泡立つ。それは私のお腹でも、彼のお腹でも、きっと。彼が私に注いでくれる。グラスに注いでくれるのではなく、私のお腹に注いでいるのだ。
「特別な今日に乾杯。」
ゆっくりグラスを傾ける。彼が私に注いだものが、本来の場所に沁みわたる。心なしか、声が大きくなる。けれど、それは気のせいだ。そんなものはない世界。飲んだものはそのままの世界。どこかに捨てたくなるなんて、それは勘違いなのだ。一日中話していたのに、それでも話すことは尽きない。見つめあい、笑いあう。この幸せに溺れていたい。二人の瓶が空になり、もう二本のヒューガルテン。何かを振り払うように、会話のペースは増していく。テーブルの下で、足先が丸まる。これはただ、身体を動かしただけ。手をあの場所に押し当てていたい、その代わりでは決してない。次の瓶も空になった。六百六十ミリリットル。酔わないように、気をつけなければ。
「もう一杯、いただこうか。」
彼は余裕があるのだろうか。違いはペットボトル二本。けれど、普段は私が強い。彼は自分を追い込んでさえ、私を溺れさせるのだろうか。さらに届いたヒューガルテンを、彼のお腹に注いでいく。とぽとぽと立つ水音が、私の水をも刺激する。彼が私に注いでいく。もういらない。飲みたくない。この黄色はもうさっきから、出口をどんどん叩いているから。出して。いい加減出して。ずっと大人しく待っていたでしょう。違う。出口なんてないから。あなたはずっとそこにいなさい。六本目を注ぎきるとき、私の手が微かに震えた。

飲みものを抑えて、ゆっくりおしゃべり。二人の心が通じあう。しかし様子を外から見れば、悲しい会話にさえ見えよう。ときどきの沈黙と、聞き返す様が不穏を写す。目の前に置かれた梅酒は、四分の一も残っている。
「あっ、ごめんなさい。何でしたっけ。」
会話に興味がないのではない。それはお互いに分かっている。少し、気になることがあるだけ。だから、どちらも咎めない。仕方ない子だと冗談めかして、指摘されてはいるけれど。彼が言い直してくれる。それが頭に入ってこない。がんがんと強く鳴り響く、お腹の叫びにかき消される。でも、これは気のせいだ。そんなこと、したくなるわけがない。二人は、ない世界の住人。おかしな幻聴を振り払い、彼の言葉に返事をする。
「あっ、ごめん。何て言ったの。」
二人の身体は通じあう。それがなんだか嬉しくて、梅酒のグラスを空にする。見た人はどう思うだろう。不自然に迫り出したお腹。すぐに止まるぎこちない会話。それ以外はまるで普通の、男女二人が座るテーブル。マスターに声をかけ、ブランデーのオンザロックが届く。動きそうな足を黙らせ、滑りそうな口を言い聞かせ、水門をしっかり締めつける。

絶え絶えの会話がしばらく続いた。ずっと、見ないふりをしてきた。からんとグラスが音を立てる。氷が少し水になる。お腹に収めるべきものが増える。いくらなんでも入らない。ベルトが悲鳴をあげている。さすがにここでは緩められない。まだたったの十二時間半。でも、飲んだものはいつもと違う。朝、お約束だった五百ミリリットル。空港での五百ミリリットル。喫茶店での三百ミリリットル。公園での五百ミリリットル。ここまでで、千八百ミリリットル。そして、黙らせた噴水を隠して、このバーまで辿り着いた。ビールがおよそ千ミリリットル。梅酒が二百ミリリットル。そしてこのブランデー。合わせて、およそ三リットル。水門が大声をあげ、左手が出口に会いたがる。けれど、それは許されない。今日の二人に、お手洗いはない。それを必要とすることでさえ、この二人には起きないのだ。彼の表情が強張っていようと、声が細くなっていようと、それらはすべて気のせいだ。私の中を暴れるものも、水門をこじ開けようとする圧も、そんなものは存在しない。ない。ない。存在しない。だから、お願い、大人しくなって。もう、もれ、違う、何でもないのっ……。

白々しくも、ほんのりと甘い会話を続ける。ありふれた、恋人未満の男女のやりとり。世間の男女と違うのは、お手洗いに行く必要がないこと。その嘘を守りぬくために、今にも噴き出しそうな欲求を、必死で留め続けていること。精悍で素敵な男性と、その人にお嬢様と呼ばれた私の、しなやかな仕草、落ち着いた眼差し。その奥で、煮えたぎった大量のお水たちが、出口を求めて彷徨っている。出口だなんて、そんなものはないのに。飲んだものは、すべてなくなるはずなのに。私のお腹は、ぱんぱんに膨れあがっている。ベルトのすぐそばで大きく迫り出し、服を引っ張りあげている。彼の入店前のお腹は、すでに硬くなりだしていた。もう中に入る場所もなく、大きくなっているだろうか。余計な思考を振り払う。ずっと憧れた人とのデート。穏やかな気持ちで、いい雰囲気で、じっくりじっくり味わうもの。この時間を邪魔するものなんて、私の中には何もない。お願いだから、そろそろ行こうと言ってほしい。もう待てない。だめ。嫌。出ちゃう。こんな素敵なお店の中で、絶対にだめ。ここは彼のおすすめのお店。顔に泥を塗るわけにはいかない。もうだめ。だめです。ごめんなさい。心の中で叫んですぐに、お手洗いの案内を探す。あまり大げさにならないよう、こっそりと視線を動かす。一度席を立ってしまえば、彼に止める術はないだろう。本日のおすすめ。今月の定休。運転代行。見当たらない。どこ。どこにあるの。トイレ、トイレ。もう待てないの。トイレ。だめなの。もう、ここで借りるしかないの。トイレ。トイレ。お願いっ……!

「どうかしたの。」
私は凍りつき、そして彼の目を見つめた。お手洗いを探してしまった。お手洗いなどというものはない、必要ない。そう二人で約束したのに。そんな私を咎めることなく、彼は優しそうに微笑んで、そして少しほっとした顔で、細い声を絞りだした。
「今、上の空だったよ。酔いが回ってきたのかな。そろそろ、行こうか。」
彼は渇望を押し潰して、私が一線を越えてしまう、その一瞬を待っていたのだ。どこまでも、素敵な人だった。もう、打ち明けることはできない。
「うふふ。少し酔ってしまいましたね。そろそろ、そうしましょうか。」
約束を破ってさえも、真っ白に透き通るあの場所に今すぐ叩きつけられるはずだった、ぱんぱんの飲みものたち。ごめんね、みんな。やっぱり、しばらくお預けです。どうか大人しくしていてね。私たちには、お手洗いなんて必要なかった。少しの間、勘違いをしていた。彼が流れるように立ち上がる。
「あっ、今度こそ、私がお支払いしますからっ……。」
一緒にさっと立ち上がり、彼を追いかけるはずだった。今まで座っていたからこそ、持ちこたえられていたお腹。立てば、上下に引っ張られる。水風船には、どんな力がかかるだろう。すべてが弾けそうになる。出口に必死の力を込める。だめ。だめ。絶対に出ちゃだめ。今から、まだ歩くんだから。じっとしなさい。やっと追いついたときには、支払いはすでに終わっていた。
「今日は私めが、なんてね。」
彼が右手をそっと引く。そのお腹に目をやると、シャツのボタンがはちきれそうだ。やっぱり、私だけじゃない。ホテルまで、何とか辿り着かなければ。

この路地は、人が少ない。小さく足音が響く。一歩足を踏み出すたびに、コップの縁でお水が揺れる。少し間違えば零れてしまう。それでも、優雅に、淑やかに。お腹を庇ってはいけない。出口を庇ってはいけない。必要としていないのだから。あの噴水が羨ましい。一瞬でも気が緩んでしまえば、この場所に現れるだろう。壊れそう。噴き出しそう。それでも、歩みは止まらない。二人の間に言葉はない。けれど誰よりも通じあう。二人が朝から育ててきた、このお水こそが証拠なのだ。広い通り。お店の明かりが光っている。一番近くに駆け込んで、白い陶器を貸してほしい。そんな恥ずかしいことでさえ、頭を巡って離れない。五分足らずで着くはずなのに、半日彷徨ったように思える。足を開くたび濁流が寄せる。その勢いを押しとどめる。ごめんなさい。もうだめです。心の中でも叫びたい。彼に伝わらないように、作り笑いを浮かべてから。トイレ。おしっこ。もれちゃうっ……!

ほとんど言葉を交わさないまま、ついにホテルが見えてきた。変わらぬ動きで玄関をくぐり、着いたね、と声をかけ合った。二人の声が震えていても、それは出かけて疲れたからだ。奥にあのピクトグラムがある。大きなうねりが私を襲う。暴れる左手をそっと宥める。一人の女性が入っていった。私のほうがしたいのに。私のほうが限界なのに。ずるい。ずるい。代わってほしい。駆け出して、すべてを解き放ちたい。我に返って歩こうとすると、彼もその場所に釘付けだった。世界が壊れかかっている。揺らさないよう優しく抱えて、エレベータへと歩き出す。

スリットの前を上下する、彼の手がどうも落ち着かない。やっとのことでカードを通し、扉のランプが青くなる。二人で、ゆっくり部屋へと入る。どう見ても普通のカップルが、旅行で泊まりに来ただけだ。ただ一点、二人のお腹は、はちきれんばかりに膨らんでいる。
「うふふ、ここまで来ましたね。」
「着いたね。ここはビューバスなんだ。お風呂はゆっくり楽しんでね。」
白々しい台詞はもはや、私の心に届かない。約束の場所、ただそれだけ。けれど、決して焦らない。世界が変わる一瞬を、じっくりと愛でてあげたい。
「あ、あのっ……。世界を元に戻しますか。」
「あと五分だけ、この世界で話をしよう。」
あと五分。まだ、お預け。私の健気な左手が、前とキスしたがっているのに。脚が動きたがっているのに。口が叫びたがっているのに。私がされるばかりというのも、少し悔しく思えてくる。精一杯の仕返しをしよう。
「そうですね。じゃあ、お水でも飲みながら。」
できる限りの自然な動きで、お水とグラスを用意する。とぽとぽとぽ……。たったこれだけでもいい、出したい。なのに、さらに注ごうとする。これが、私たちの愛の世界。
「今日一日に、乾杯。」
冷たさが喉を過ぎるたび、お腹の圧が増していく。もう、口で飲んでいるのではない。お腹が直接飲んでいるのだ。は、はぁっ……と、彼からか細い吐息が漏れた。

「あら、さすがにお疲れですか。」
「そろそろ……世界を戻そうか。」
ついにこのときがきた。けれど、その前に一つだけ、思い描いていたことがある。
「その前に、気になることがあるんです。」
「何かな。」
「ついてきて、いただけますか。」
ゆっくり、ゆっくりと立ち上がる。もう、さっと立ちあがることなどできない。それでも彼は咎めなかった。彼の歩みもぎこちない。そして着いたのは、知らない扉。TOILET、と書いてある。お腹のお水が帰る場所。そして、まだ最後の一線で、二人には存在しない場所。もう、狂ってしまいそう。
「このお部屋、何だか分かりますか。」
彼の脚が、不自然に閉じる。ゆったりと立てないのだろう。可愛い。素敵。もうそこまで差し迫っているのに、疑問だという顔を彼は作った。
「何だろう。開けてみようか。」
ぎいっ、がちゃっ……、とドアが開く。白い陶器に、お水が居座る。お腹が騒ぐ。身体が喚く。すぐに下着を下ろしなさいと。直ちにそこに座りなさいと。おといれ。おしっこ。おしっこぉっ……!
「変な形の陶器ですね……。何なのかはよく分かりませんが、危ないものではなさそうです。とりあえず、戻りましょうか。」
これ以上ここには居られない。
「そうだね。」
彼は急いで扉を閉めた。

揃ってベッドに腰掛ける。
「じゃあ、この世界にお別れしましょう。」
「いいよ。いくよ、せーのっ……。」
ここまで言い聞かせてきた、欺いてきた身体の叫び。もう隠さなくていい。足の指が強く丸まる。上半身が前に傾く。そして、左手と前が抱き合う。
「あ、あっ、あの、あのっ、ああっ……。」
一滴も出せていないのに、何も解決しないのに、押さえた手だけで、安らぎが広がる。彼のほうに目をやると、ズボンの中に左手があった。それでも素敵な彼の姿が、私の心を教えている。可愛いね、と彼が触れる、鉄板のような私のポット。素敵です、と私が触れる、膨らみきった彼の貯水池。大切に育てあう。もう少しだけ、今は、このまま。

意識は彼とお手洗いだけ。何分愛であったのだろう。ずっとこうして過ごしていたい。身体はそれを許さない。一気に降りてくる限界。
「あのっ、もうだめ、お手洗いにっ……!」
「分かるけど、我慢、だよ。」
震える彼が、意地悪を言う。もうだめだ。あれをするときだ。どちらかが諦めるときに、一緒に行こうと決めていた。押さえつけたまま、立ち上がる。腰はくの字に折れたまま。誰から見ても、噴射寸前、みっともない大人の姿。
「可愛いね。」
彼も察して立ち上がる。内股で腰の曲がった、すべてが通じあった男女。片手同士を優しく繋ぎ、もう片方は出口を押さえ、二人は浴室に立った。窓から広がる夜景の光で、はしたない輪郭が浮かぶ。

「もう本当に、だめなんだね。」
「だめ、あっ、待ってっ……。」
「じゃあ、もう一度、頑張って。」
彼がゆっくり手を離す。身体がしっかり伸びていく。足が震え、息が荒い。それでもまっすぐ立っている。私も、何とか手を離す。それでも限界だったけれど、今度こそもう耐えられない。手と前とが力を合わせて、何とか守っていた水門。もう一度、ひとりぼっちになった。あっ、んっ、はぁっ、と吐息が漏れる。上半身を無理矢理起こす。お腹が上下に引っ張られる。
しっ、ぢゅいいっ。
下から何かの音がした。脚に温かさが伝う。下着が身体にじっと張り付く。もう一分も持たせられない。震える脚が彼にぶつかる。
「今日は会えて嬉しいよ。」
逞しい腕が私を寄せる。それにすべての重さを預ける。彼の胸板が目の前にある。触れあう身体、押されあうお腹。この苦しみが、幸せなのだ。まだ出しちゃだめ。まだ出しちゃだめ。彼のお腹と私のお腹。満水の場所。二人が求めあうほどに、強く押しつけられていく。
ぶしゅっ、しゅううっ!
ずっと閉じ込めてきたお水は、もう言うことを聞いてくれない。彼に私の香りをつける。必死に閉じて、力を込める。それでももはや、どうにもならない。そっと最後の扉を開く。彼のグラスと私のグラスで、乾杯と、口づけを。
しゅうう、じょおおっ、ぴちゃぴちゃ、びしゃっ。
一瞬では終わらない、一日抱えた愛のしるし。霞にかざした淡い一筋が、二人とその湧水を照らす。