この趣味の気持ちが高まるとき

誰しも、どんなときでも、あることを考えたい・したいときと考えたくない・したくないときというものはあると思います。 たとえば、基本的にはお散歩が好きな人でも、今は気分ではない……ということもありますよね。

この趣味は、とくに気持ちを昂らせるところがあります。 私自身この趣味のことは大好きなのですが、気持ちの大きなときとそうではないときはあるものです。 しかし、見る側としては、よほど疲れていたり落ち込んでいなければ、意外と受けいれられます。 たとえば、twitterなどでは日々素敵なツイートや作品が流れてきます。 あまり気分ではないからと放っておいてしまうと、そうしたものを見逃してしまいます。 ですから、できるだけ確認して、そのときに楽しまなくともブックマークすることを心がけています。 もともとはあまりそうした気分でなくとも、素晴らしいものに出会って気持ちが高まることももちろんあります。

ただ、こちらが発信するとなるとそうはいきません。 少しそういう気持ちかもしれない、というくらいでは、なかなか自分が表現するところまではできないものです。 (ですから、メッセージのお返事やリプライなどは、気持ちが高まらないとなかなかできません。お待たせしているときが多々ありますが、どうかお許しください。) そうしたときは、気持ちを落ち着けて別のことに気を向けてしまうこともありますし、あるいはこれまでに出会った素敵な作品たちを楽しむこともあります。 気分が高まったら、環境が許せば自分で抱えるときも、そこまでできなければ「我慢なりきり」を楽しむときも、時間やお相手と合わなければさらに作品を楽しんで満足するときも、あります。

私にとってとくにこの趣味の気持ちが高まるときとは、予想の通りだと思いますが、自分があの感覚に苛まれているときです。 ただし、あの感覚があればいつでもかといえば、そうではありません。 たとえば、仕事の途中などでは、単に集中を削ぐだけのものです。 (ただし、私は人前でお手洗いには入れないので、しばらく抱え続けることはままあります。このことはまたどこかで書きたいと思います。) お出かけの途中などでは、一人の外出で帰るめどが立っているようなときは気持ちを高めてくれますが、そうでなければ不安になるだけということもあるでしょう。 仕事や外出から帰宅したときには、日によればかなりの量を抱えていますから、趣味の気持ちに傾くことはあります。 家で過ごしていていつの間にか時間が経ち、ふと気づくとあの感覚があり、一気に盛り上がってしまうこともあります。 ただ、これらも一人になれるときでなければ、なかなかそこまでの気持ちにはなりません。 家族の目があると、無意識に自制してしまうのかもしれません。 さすがに家族の前ではお手洗いに立てますので(それでも恥ずかしいのでそっと行きますが……)、済ませて落ち着いてしまうのが日常です。

さて、私がこうして趣味の文章や記事を書くときは、それなり以上に気持ちが高まっていて、人の目がないときです。 (家に一人きりでなくても、部屋にこもってそういう気分になることもあります。) そうでなければ筆が乗りませんし、せっかく何かについて語るのなら、自分が盛り上がっているときのものを残したいですからね。 そして、そのときはたいてい、普通程度には重みがあります。 もちろん、あまりたくさん抱えてしまうと、文章を書いてはいられなくなってしまいますから、ほどほどです。 ですから、抱えていることそのものを満喫する、というほどではなくとも……あの感覚を味わう程度には気にしながら、ときによっては軽く身体を揺らしたり、次の文章を考えるときに無意識に手がよくない場所へ移ってしまったりもしながら、37℃のティーポットを作っています。 この名前を付けておいて、ティーポットが空っぽのときに書くわけにはいきませんよね、なんて。 もちろん、この記事も……。