私が満水まで抱える理由

少し前段が長くなりました。本題からをご希望であれば、第五段落からお読みください。

お手洗いといえば、普通は気が付けばに早めに済ませようと思うものです。状況が許さずに抱えてしまうことは誰しもあるでしょうけれど、それはやむを得ずすることです。私は人前でお手洗いに立ったり入ったりすることができません。そのために、人よりも多くそうした目に遭っているだろうと思います。

しかし私には、仕方なくではなく、すすんで抱えて過ごすときがあります。それには、大きく分けて二つあります。一つは、趣味の気持ちが高まっていて、作品や創造に寄せるためにお手洗いを先延ばしにするとき。もう一つは、体調を整えて水分を取って、私が抱えられる限界までお腹に抱えるとき。ここでは、後者について話そうと思います。

水分をたくさんいただいて、身体の声に苛まれながらも、抱えたまま過ごす。本当は、月に一度くらいはそうできればと思っています。ところが、家族に知られたくありませんから、長時間一人きりになれるときでなければいけません。さらに、翌日のお手洗いがとても近くなってしまいます。私は外のお手洗いはほぼ使いませんから、そうなると死活問題です。ですから、連休のはじめの日に、ひとりきりになれて、体調もよい、という幸運に恵まれたときにだけ、こうしたことをしています。(これがなかなかできないので、代わりに我慢なりきりを楽しんでいるとも言えます。)

さて、私はこの趣味を持っています。その根底は、他の人が抱えていらっしゃるところ、限界寸前で何とか(お手洗いであれ、そうでないところであれ)済ませているところ、そしてどうにもできずに溢してしまうところ、そのご様子や心境を拝見することです。このような傾向をお持ちで、かつご自身でも抱える方の多くは、表現の助けであったり、作品と共鳴するために抱えることを楽しまれているのではないでしょうか。私も、軽く抱えながらみなさんの作品や発言を味わっているときはそうした理由です。しかし、満水にするときは、そうではありません。

私が自らを満水にする理由は、何かと共感するためではなく、私の理性と本能の両方を感じるためです。自分が生き物であることを満喫するためと言ってもよいかもしれません。これまで、掲示板やツイッターで、私自身の様子をお伝えしてきました。それも、理性と本能を味わい尽くすためなのです。

はじめに書いたように、私は人目があるときにお手洗いに入ることができません。それは、私はお手洗いに対して人よりも恥ずかしさを強く感じるからです。(ここでは書いていますが、「お手洗い」という単語など現実では到底口にできません。)ましてや直接的な単語など、小説やなりきりでもなければ到底書くことができません。けれど、やはりこの趣味は持っているのです。心の片隅に、体験談の誰かや作品のキャラクタではなく私自身のものとして、隠しきれなくなってみたい、心配されてみたい、そして恥ずかしい目に遭ってみたい、そうした気持ちがあります。しかし、駆け込みたい、今すぐに済ませたい、その程度では、たとえ趣味を明らかにしているウェブ上であっても、そんな態度を取ることはできません。私の人間としての理性と羞恥心が、動物としてのもう今すぐに出したいという本能に打ち負かされるまでは、とてもできないのです。

恥ずかしさをかなぐり捨てて、求めるままに気持ちを吐き出せるとき。それは、もう取り繕うためのわずかの余裕もない、今にもすべてが溢れ出してしまいそうな、限界寸前のときだけなのです。そのひとときの、自分が動物なんだということに身を任せるあの瞬間。そのために、私はたくさんのお水を秘密の場所に抱えています。

私の実況をご覧になったことがある方には、明らかにそうした趣味で飲んでいるのにもかかわらず、途中まで大した報告をしなかったり誤魔化し続けたりすることに疑問をお持ちの場合もあるでしょう。けれど、それは、私の理性が本能に負けてしまうときまで、恥ずかしさでそうとしか言えないからなのです。そして、はっきりと言ってしまっているということは、日ごろそうしたことを極限まで隠して生きている私の羞恥心のすべてが、お腹をぱんぱんに満たしている温かなお水の欲求についに負けてしまったことを意味しているのです。

これからは、過去の実況を記事にしていきたいと思っています。楽しんでいただけますと幸いです。

……ここからはおまけです。ここまで書いたように、抱えているとき、特に理性と本能のせめぎあいこそが私の喜びです。けれど、私を苦しめもする恥ずかしさが鍛えてくれた証である貯水量も、ついに済ませるときの解放感も、あるいは抱えきれずに溢してしまうときの感覚も、もちろん味わい深く楽しんでいます。お相手くださるみなさま、本当にありがとうございます。