助けたいのに。

  • さくちゃんはお手洗いに行かない。そのことを、もっと早く、思い出さないといけなかった。

「さくちゃん、私たち、先越されちゃったね。」
「早ければいいってものではないし、しなきゃいけないってものでもないし。おめでたいこと、でしょう?」
もちろん、それは、そうなんだけど。いまどき、生涯独身も珍しくないし。でも、してみたいんだよね、結婚。残念ながら、去年さんざん慰めてもらって以来、私の身辺に変化はない。
「そうだけど。あーあ、二次会、ピンとくる人いなかったなあ……。」
いや、実はタイプの男性は見つけたものの、脈がなさそうだったのだ。新婦の昔話教えてよ、なんて話しかけられたけど、さくちゃん目当てがバレバレだったんだよね。
「ゆーちゃん、今日はお祝いの場なんだから。いけませんよ。」
やはり真面目一筋。もちろん冗談めかしてだけれど、いけませんよ、なんて言葉遣いからして、私とは違う。どこかのお嬢様が身分を隠しているんじゃないの、なんて疑いたくなる。名前も桜子で、そこから格が違う気がする。しかも、素朴系でかわいい。緑のパーティードレスを完璧に着こなしている。ずるいでしょ。そりゃあ、男どもは寄ってくるよ。
「さくちゃんは? いい人いないの?」
「うーん……、いない……かな。」
えっ、何その怪しい反応。でも、中学生じゃないんだし、いないと言われてしつこく聞くわけにもいかない。親しき仲にも礼儀ありだ。話題を変えよう。
「あのさ、三次会、無理に誘ってごめんね? 終電ギリギリになっちゃったし。」
「ううん、いいよ。あーちゃん、喜んでくれてたから。行けそうなら行こうかなって、悩んでもいたし。」
あーちゃんというのは、明日香のことだ。こんなに子供っぽいあだ名で呼んでいるのは、私たちがそのころからの仲だからだ。幼稚園バスの乗り場が一緒だったときから、なんと二十年。性格も、高校から先も違うのに、よく続いている。その明日香が、今日、こんなに遠く離れた場所で、結婚してしまった。いや、明日香は本当に幸せそうだったから、それはいいんだけれど。ちょっと頼りなさそうな、でも優しさと思いやりは滲み出ていたあの旦那、私たちの明日香を、大切にしてちょうだいね。
「あーちゃん、こんな遠くに行っちゃってさあ。寂しいよー。」
「特急なし、乗り換え一回だよ。すぐに会えるよ。」
「でも、一時間以上乗るじゃん。まだ十時台なのに、終電なんだよ?」
そう、急いでいるのだ。ヒールだから走れないだけで、ギリギリなのだ。終電に。ここからタクシーは、シャレにならない。絶対に乗らねば。
「寂しいのは、私もだよ。ゆーちゃんは、遠くに行かないでね?」
うん。行かないよ。それか、私たちもこの辺に嫁いじゃおうか。

よし、改札だ。一分はある。ホームへの階段も見えている。なんとか間に合うぞ。
「ギリギリ乗れる、よかったー。」
改札を通って、階段へ一直線。無駄な動きをしている暇はない。
「ゆーちゃん、ごめんね。ちょっと、先に行ってて。」
「えっ、なに、足痛い? でも、もうギリギリだよ! 行かなくちゃ!」
まもなく二番線に、と放送が聞こえる。このままじゃ、さくちゃんが乗り遅れる。駆け寄って、手を引く。
「え、えっ。」
「今だけの我慢だから! 荷物持ってあげるから!」
荷物を奪い取って、手を引く。さくちゃんは無事ついてくる。ホームへ上がると、ちょうど電車がやってきた。セーフ。そして幸いなことに、座席もあった。
「やー、あぶないあぶない。乗れてよかったね。席もあってよかった。足休ませられるよ。」
「うん。」
「やっぱりヒールとか、もう時代錯誤なんだよ。足平気?」
「うん。平気だよ。ありがとう。」
「はい、荷物。無理言ってごめんね。でもほら、ここからタクシーなんて怖すぎて……。」
「ゆーちゃん。家まで帰れるのは、これが最後だけれどね。まだ十時台だもん、途中までなら、電車あるよ。行けるところまで行って、そこからタクシーに乗ればいいだけだよ。」
あ、そうか。さくちゃん賢い。さすがだ。まあでも、それだって結構お金かかると思うし、結果乗れたんだから、いいじゃない。

帰り道も、さくちゃんといっぱい話そうと思っていたんだけれど、そっとしておいたほうがいいかもしれない。
「さくちゃん、疲れてる?」
「ううん、平気だよ。」
「うーん、そう? 疲れてそうに見えるよ。」
「そうかな……、心配かけてごめんね。」
「ううん。とりあえず私、静かにしてるね。でも、いつでもしゃべりたいから、元気が出てきたら、声かけてくれる?」
「うん。ありがとう。」
うーん、これは相当疲れているとみた。さくちゃん、そういうのあんまり見せないんだよね。二次会で帰るって言ってたもんね、飲みすぎたかな。無理させちゃったかな。今更、罪悪感が湧いてくる。あーちゃんは、私たちを三次会まで招待してくれた。でも、さくちゃんは二次会まで、と言ってきかなかった。確かに、さくちゃんはお酒も控えめだし、賑やかなのも得意じゃない。むしろ二次会に出てくれるだけ、あーちゃんのためを思っている気もする。でも、結婚式って、やっぱり特別だから。あーちゃんと作戦を練り、さくちゃんのおばちゃんにも根回しして、さくちゃん三次会に出てもらおう作戦を立てた。さくちゃんは優しいし押しに弱いところがあるから、そこを攻めるのだ。
「あーちゃん、ごめんね。私、やっぱりここで帰るね。今日は本当に素敵な式だったよ。」
「えっ、さくちゃん! 二次会疲れちゃった? 三次会ね、お互いに親友だけ呼んで、ちっちゃくやろうとしててね。っていうか、さくちゃんとゆーちゃんしか、私呼んでないし、さくちゃんいないと寂しくて……。ここまでほとんど話せてないし。それに、涼くんとも話してほしくて。お願い!」
その涼くんに目配せする。
「あの、明日香がわがまま言ってすみません。ですが、俺もぜひ、昔の話、聞かせてもらいたくて。もちろん、朝が早いのでしたら、無理は言えませんが……。」
打ち合わせ通り、完璧なパス。明日の予定は、私が押さえているのである。
「さくちゃん。明日も、私たちで遊ぶだけじゃん。しんどかったら、時間遅らせてもいいし。すっぽかしてもいいから。ね?」
「じゃあ、うん……、もし、途中で抜けたらごめんね?」
「やったー!」
「さくちゃーん! さっすがー!」
三次会、本当に出てよかった。旦那のいい人エピソードも向こうの友達からたくさん聞けたし、私たちがいかに仲良しで、定期的に遊ぶ必要があるかを十分にプレゼンできた。さくちゃんも、話は弾んでいたと思う。でも今思うと、疲れは出ていたような気もする。なんとなくぎこちなかった。それでも結局、終電まで付き合ってくれた。その結果が、今のさくちゃんだ。さくちゃん、ごめんね。私が責任もって、家まで連れて帰るから。

乗り換えまでの二十分、さくちゃんはそのままだった。硬い表情で、遠くを見ながら、ぽつぽつと、おしゃべりをする。心配だ。でも、もうとにかく帰るしかない。乗り換えも、余裕はない。ヒールだからだ。テキパキと動き、乗る。ルートを何度もイメージする。
「そろそろ乗り換えだね。しんどそうだよね、無理させてごめん。」
「ううん、心配かけて、ごめんね。平気だから。」
平気じゃなさそうだから、言っているのだ。今のさくちゃんでは、本当に乗り遅れるかもしれない。行くぞ。私がさくちゃんを家まで連れて帰るんだ。

着いた。さくちゃんの荷物を持つ。
「えっ、ゆーちゃん、返して……!」
「いいから。無理させた私が悪いから。行くよ。」
手を引く。小走りの二人組が見える。そうなんだよね、本当は走りたいんだよ。
「ゆーちゃん、待って……!」
「ごめん、本当にギリギリだから。あの人たち走ってるでしょ。乗り換えだと思う。疲れてると思うけど、今だけ急いで。」
さくちゃんが何度も待ってと言うけれど、そんな時間はない。強く手を引き続ける。
「先乗ってくれて、いいから、荷物……!」
無視。置いていくわけにはいかない。無理させておいて、一人で先に帰るなんて。私、そんなに薄情じゃないよ。
「……から先は最終です。まもなく発車いたします、お乗り遅れのないよう……。」
「待ってー! 乗りまーす!」
急げ。ドアが開いている。急げ。急げ。やった。乗れた。さくちゃんを引き寄せると、すぐにドアが閉まった。ここまで来れば安心だ。あとは五十分、ただ揺られていればいい。

一人分、席がある。よかった。
「さくちゃん、座って。」
「うん……。ありがとう……。」
さくちゃんが、力なくそろそろと座る。えっ、そんなにしんどいの。あ、まさか。私は隣に聞こえないように気をつけながら、そっと耳打ちした。
「ごめん。もしかして、吐きそうとか? 大丈夫?」
「ううん。心配しないで。」
「寝てて、いいよ。起こしてあげるから。」
「ありがとう。そうするね。」
それだけ言って、さくちゃんが俯く。乗り換える前に、どうしたいか聞くべきだったな。私のせいだ。途中で無理になって降りても、タクシー代くらい払えばいいや。本当に緊急事態のときは、私の鞄でも差し出そう。さくちゃんは、私が守る。あーちゃんと私のわがままに、付き合ってくれたんだから。さくちゃんはううんと言ったものの、正直私は疑っている。さくちゃんは多分、吐きそうでも言わない。そうだったんだよ、さくちゃんは。無理させちゃいけなかったんだ。

さくちゃんの極端な恥ずかしがりは、小学校一年には始まっていたと思う。とにかく、自分のことを言わない。幼稚園時代は覚えてないけれど、お腹が空いたとか、眠いとか、そういう言葉を聞いた記憶がない。鼻をかむのも、トイレに立つのさえ、見た覚えがない。すごいを通り越して、意味がわからない。デート中なら、まだわかるよ。好きな男の前とかなら、私もそういうの、できれば隠したい。でもさ、私たち、二十年来の仲だよ。真剣に、身体の作りでも違うんじゃないかと思ったことさえある。でも、実はそうじゃない。これは、さくちゃんの鋼の乙女心の成果なんだっていうことを、私だけが知っている。中学校の修学旅行、学校で解散してからの帰り道。当然のように三人で帰る。まず、あーちゃんとお別れ。二、三分で、私のマンション。じゃあね、と言ったさくちゃんは、完全にいつも通りだった。さくちゃんに背を向けてしばらく進む。あっ、ヘアゴム借りたままだ、声をかけようと振り返った。そこにいたのは、身をかがめて、マンションの植え込みに向かうさくちゃん。あまりに異様で、声が出なかった。どうしたんだろう。こっそり、ばれないように近寄った。そして、後悔した。植え込みと壁の隙間にしゃがむ、さくちゃんの後ろ姿。そして、明らかな、あれの音。おしっこ。たぶん、すごい勢いの。もうずっと、お手洗いに入る様子を見たことがない、さくちゃんの。自分の家まで、あと五分もないはずなのに。それすら無理ってことだよね。帰り道、隠してたってことだよね。とてもそうは見えなかった。私たちの仲でも、言えないんだね。まさか、二泊三日ずっとじゃないよね? そんなの、身体壊しちゃうよ。私にくらい、頼っていいんだよ。こっそり行かせてあげるから。みんなにはごまかしてあげるよ。お腹壊したらどうするの。生理のときはどうしてるの? 一人で、隠して生きるさくちゃん。私はもう泣きそうだった。それでも、じゃあねの瞬間まで、完璧に隠し続けたさくちゃんに、どう言えばいいのかわからなかった。それからしばらく、私はさくちゃんのトイレを心配し続けた。それでも、さくちゃんはいつも通りだ。トイレに行くところは見たことがない。気になる様子も見たことがない。結局、しばらく経つうちに、すっかり忘れてしまっていた。さくちゃんは、無理していても言わない。帰してあげるべきだった。

あっ! まさか。いや、でも、そんな。いくらなんでも、そんなばかな。集合したの、十時半だよ。ヘアセットもあるからってさ。十二時間以上経ってるよ。二次会、さくちゃん大人気で、何杯も注がれてたじゃん。嘘でしょ。さくちゃん。トイレ、一回も、行ってないの……? でも、さくちゃんだ。絶対に、トイレに行かない、さくちゃんだ。思い出す。さくちゃんは、ずっと私と一緒にいた。ほかに知り合いもいなかったから。そして、私だけトイレに行った。さくちゃんは、座ったままだった。戻ってきても、そうだった。気づいてしまった。さくちゃんのしんどさ、その正体に。そして、私が、さくちゃんを追い詰めてしまったことに。さくちゃん。トイレって言ってよ。私たちの仲じゃん。先行ってじゃわかんないよ。でも、今まで、そういうごまかしすら言ったことなかったよね。ってことは、そんなに、まずいの? 二十年で一番? 終電逃してでも? ちょっと待って。二次会でやっぱり帰るって言ってた、やっぱりってさ。そういう意味? まさか、三次会、最初からずっと我慢してたんじゃ、ないよね……? 二時間もあったんだよ、三次会。さくちゃん。違うって言って。さっきしたくなって、電車長いから、行っておきたかっただけだよね? そうだよね? お願い。私、三次会始まるときから、そんなに前から、さくちゃんのトイレ、ずっと邪魔してたの?

あと、四十五分もある。三次会、ちょっと疲れた顔してたよ。隠してたんだよね。なんで忘れてたの、私。思い出すの、遅いよ。せめて乗り換える前に思い出してよ。さくちゃんの親友でしょ。ちゃんとしなよ。そうしたら、知らないふりして、解放してあげられたのに。ホームで待ってた振りでもして、タクシー割り勘で帰ればよかった。それなら、さくちゃんは傷つかなかった。こんな辛い目に遭わなかった。ごめん。ごめん。さくちゃん。どうしよう。トイレだよね、次で降りよ、タクシーで帰ろ。そう言えたらいい。でも、言えない。あの日のさくちゃんを、私にさえ、必死で隠していたさくちゃんを、知っているから。さくちゃんのプライドを、私から折るなんて、それはできない。だって、すごいもん。たしかに、ちょっと疲れてそうとか、酔ってるかなとか、それくらいには見えるかもしれない。でも、十二時間もトイレに行ってなくて、しかもあんなに飲まされて、さっき終電を逃してでもトイレに行こうとしていたようには、まったく、見えない。だから、言えない。さくちゃんの努力を、壊しちゃいけない。私はただ、祈るだけだ。さくちゃんは、手を握って、じっと、斜め下を見ている。少しずつ客が降りていく。私はさくちゃんの隣に座った。

減っていた客がさらに降りた。この車両には、私たちと、あと二人だけ。ここまで来た。乗り換えてから三十分、さくちゃんは耐えた。手を握って、俯いたまま。一言も、口をきかずに。さくちゃんが言っていた通り、この駅までなら、まだ電車はあった。ここから先が、もうないのだ。私が、さくちゃんに無茶をさせた理由、その、二十分が始まる。あと二十分だよ。さくちゃんがどれだけ危ないのか、私にはわからない。でも、たぶん、かなりだと思う。電車に乗った、五十分前からはずっと。そうじゃなかったら、おしゃべりだって、いつも通りのはずだろうから。こんなになって、五十分経つ。さくちゃん、さくちゃん。頑張って。助けたいのに、助けたいのに。私には、何の力もない。

がさ、と音がした。引き出物の紙袋だ。目だけで、こっそり、さくちゃんの方を見る。……ない。左手が、ない。袋を抱えて、握られていたはずの、左手が。さくちゃん、降りよう。もういいよ。無理しないで。田舎だけど、どうにかして、帰れるよ。トイレ行こう。恥ずかしくないよ。言いたいのに、勇気が出ない。きっと、これは、押さえてる。さくちゃんが。あのさくちゃんが。私のせいで。助けてあげなきゃいけないのに、あの日見てしまったさくちゃんが、気づかないでと立ちふさがる。たぶん、気づかれないと思うよ、あっちにいる二人には。さりげないし、遠いし、片手が見えないだけだもん。私も他人なら、気づかなかったよ。でもさくちゃん。二十年の仲なんだよ。行ってないの、知ってるんだよ。さくちゃん、頑張れ。でも、本当は、もう降りてほしい。

次の駅で、向こうが降りた。もう、私たちしかいない。それでも、さくちゃんは変わらない。右手で引き出物を支えて、左手がいなくなったまま。俯いて、黙っている。もう私たちしか、いないよ。せめて、ちょっとは楽にしなよ。あの日のさくちゃん、ごめん。私、やっぱり、見てられないよ。
「さくちゃん。」
「……うん?」
「もう他のお客いないから、聞くんだけど。……もしかして、トイレ?」
「え? ううん。ちょっと長丁場で、疲れただけ。心配させちゃった? ごめんね。」
嘘ばっかり。もう、押さえちゃってるんでしょ。ふたりきりじゃん。ごまかさないでよ。
「一回も行ってないのも、二次会で飲まされてたのも、知ってるから。さくちゃん、そういうの見せないから、言いたくないのかもしれないけど。頼っていいんだよ。」
「……。ちょっと、だけね。待たせちゃうけど、降りたら、行こうかな……。」
ちょっとだけ、だって。絶対に、違うでしょ。じゃないと、降りたら行くなんて、さくちゃんは言わないでしょ。三次会、来させちゃいけなかった。ごめんね。ごめんね。でも、こう返されて、嘘つかないでよ、もれそうなんでしょ、押さえてるでしょ、すぐ降りようとは、どうしても、言えなかった。
「楽にしてていいよ。見ないから。」
「子供じゃないんだから。心配されるほどじゃないよ。」
それでも、左手は戻ってこなかった。

駅に着いて、ドアが開く。あと、二駅。十分は切った。
「最終です、お乗り遅れのないよう……。」
ここから乗る人なんていないでしょ。最終なんて、言わないでよ。さくちゃんが、降りないって決意しちゃうじゃん。降りてもいいって、言ってあげてよ。わかってる、無理させた私が、悪いことなんて。八つ当たりだ。風が吹き込む。閉めてあげて。っていうか、もう、通過してよ。どうせ、ほとんど乗ってないでしょ。お願い。さくちゃんが、ピンチなんだよ。私の、大事な、さくちゃんが! ドアが閉まる。動き出す。電車が揺れる。速度が上がって、少し落ち着く。でも、揺れる。揺れている。座席が。隣が。さくちゃんの腰。ゆさゆさ。もじもじ。さくちゃんが、隠せてない。前後に揺れる。どうしよう。指摘して、次降ろそうか。でも、あと二駅。何分かしか変わらない。気づかない振りをして、予定通りに行かせたほうが、さくちゃんの心は守られる。どうしよう。どうしよう。さくちゃんが、身体を揺する。私が隣に座っているのに。あのさくちゃんが。どれだけ、我慢しているんだろう。どんなに、辛いんだろう。さくちゃん。がんばれ。神様、どうか、さくちゃんに力を。速度が落ちる。ホームに入る。ドアが開く。口を開ける。でも、声は出なかった。聞こえるのは、最終のアナウンスだけ。あと一駅だから。さくちゃんの心が、守られるなら。私は、石になることを選んだ。ドアが閉まる。もう、選択肢はない。駅を出る。さくちゃんが揺れる。気づかない。私は気づかないよ。さくちゃんは、ちょっとだけトイレに行きたくて、でも大人しく座ってるだけ。気づいてないよ。安心して。あとちょっとだよ。七十分も、我慢させてごめん。三次会からなら、三時間か。三時間。血の気が引いた。三時間前に、行きたくなったんじゃないと思う。やっぱり無理だ、三次会は諦めて帰ろうって、そう思ってからの、三時間のはずだ。そうだよ。こっそり行こうとしてたんだもん。そんなこと、したことなかったのに。さくちゃん、もうずっと前から、おもらし寸前なんでしょう。

電車の速度が落ちていく。もうすぐ着く。さくちゃんは、耐えきった。地獄のような責め苦だろうに、一切の弱音も吐かずに。小さく、精一杯隠すように、さくちゃんの足が擦り合わされる。いいんだよ。私はそれ、見てないからね。
「着くよ。」
「……うん。」
降りてからが、最後の試練だ。上りホームにしかトイレがない。しかも、駅舎が分かれている。改札を出て、踏切を渡って、駅員に入れてもらわないといけない。言えるかな、さくちゃん。ついて行こう。いざとなったら、代わりに駅員に言ってあげよう。私が行きたいことにしてもいい。せめてそれだけでも、罪滅ぼしに。
「あ、引き出物、邪魔だよね。持っててあげる。トイレ、あっちのホームだし。」
「平気だよ、自分で持つよ。」
どこまでも、強がり。親友でしょ。頼ってよ。もれそうなの、バレてるんだよ?
「たまには頼りなさい!」
もう、電車が止まるから。それを見越して、紙袋を奪い取る。
「あっ……!」
さくちゃんの目が見開かれる。そんな顔、できるんだ。セットもメイクもいけてるさくちゃん。腕に通されたサブバッグ。私が奪い取った引き出物。それに隠されていた、さくちゃんの左手。思い切り、前を押さえている。いいの、それは、もう知ってるから。素敵な緑のパーティードレス。しわの寄った、手の周り。黒い。そこだけ、色が違う。えっ? それ、まさか。さくちゃん、さくちゃん!! ドアが開いた。
「見なかったから、行って!」
さくちゃん。ちびってる。しかも、あんなに。よたよたと、電車を降りる。押さえたまま、前かがみで。周りを見る。誰も降りてこない。よかった。よかった。田舎でいいこともあった。
「私がついてる。あと少しだよ。」
「見ないで。見ないで。」
「見てない。応援してる。」
電車が行った。改札が近づいてくる。さくちゃんが止まり、バッグを漁る。その間も、ヒールの音が聞こえる。見慣れたパスケースが出てくる。さくちゃん、可愛いもの好きだよね。びちゃびちゃ。水音。さくちゃんの足元。バッグの相手で、離したからだ。頑張って。頑張って。もう一度押さえる。見てないよ。少し進んで、改札を出る。床に点々と残る、小さな染み。いいよ。こんなの、出たうちに入らないよ。あとは、踏切を渡って、えっ、さくちゃん!
「さくちゃん! あっちだよ!」
つい、反射で言ってしまった。さくちゃんだって、トイレの場所は知っている。なのに、逆側の道へ。それはつまり、そういう意味だ。
「ちが、ちがうのっ。あ、や……。」
びちゃびちゃ。駅の明かりで、かすかに光る、さくちゃんの足元。
「ごめん。なんでもない。して!」
数歩、奥へ。駅舎の横、ただ、遮られて暗くなっただけ。ドレスをめくり、下着をおろして。さくちゃんが。している。おしっこを。ここを選んで出したのか、出てきてしまったからここにしたのか。それくらい、ひどい場所。誰も来ませんように。誰も来ないで。私でよければ、何でもするから。さくちゃんは悪くないから。目を背けても、音は聞こえる。十年ぶりの、さくちゃんの音。あのときに増して、ものすごい音。早く終わってと祈り続けて、かなりの時間が経ってから、やっと、やっと、音が途切れた。
「ティッシュ。使って。」
「あり、がとう、ごめんなさい……。」
涙声で受け取り、拭くさくちゃん。もう一枚取って、下着を摘んで、履き直す。さすがに下着は捨てられないよね。立ち上がって、ティッシュの袋にティッシュを入れて、えっ、ティッシュくらい捨てなよ、バッグ入れるの?
「さくちゃん、もっと、楽に生きようよ。」
「全部使って、ごめんね。明日返すから。変なもの見せて、本当にごめんね。」
「違うよ、さくちゃん。」
耐えろ。私が泣いてどうする。辛いのはさくちゃんだ。言いたいことはたくさんあっても、まずはここを離れるべきだ。
「とりあえず、行こう。行きながら話そう。」

その場を離れて、二人で歩く。鼻を啜る音が聞こえる。
「三次会、ごめんね。二次会で帰れば、こんな、その……。」
「ううん。出られそうなら出たかったのは、本当だから。あーちゃんのいいところをいっぱい、旦那さんに伝えることもできたし。旦那さんのこともわかったし。三次会、出てよかったよ。誘ってくれてありがとう。」
「電車も、乗り換えも、私、無理やり……。」
「私が、言えなかっただけだから。乗り遅れないか、心配してくれたんだよね。」
「あの……。困ったとき、頼ってくれていいんだよ。知られたくないの、わかってるから。みんなに気づかれないように、行かせてあげるよ。疲れたとか、しんどいとか、なんでも、言っていいんだよ。」
さくちゃんは、何も言わない。
「それとも、全部忘れたほうがいい?」
さくちゃんは、何も言わない。
「さくちゃん、私、親友だよ。さくちゃんが何しても、何があっても、大好きだから。」
「……じゃあ、どっちも。忘れて。でも、ないと思うけど、もし、本当に困ったら、こっそり、内緒で、頼るかも。」
「うん、うん……!」
もうだめだ。一年振り、私の大泣き。慰めるさくちゃん。
「ゆーちゃんが泣くの? 私、泣く暇ないじゃない。」
「何も見てないし、何も起きてないから、さくちゃんが泣くこと、ないんだよ。」
さくちゃんが、鼻を啜った。
「そっか、たしかに、そうだった。でも、これだけは言うね。恥ずかしいけど、嬉しいよ。ありがとう、ゆーちゃん。」

あーちゃんの式から三年。お見送りが、終わった。私の結婚披露宴が、終わった。あー、疲れた。でも、楽しかった。幸せだ。この後は、肩肘張らない二次会と、あーちゃんのを見て、絶対にやりたくなった三次会。もちろん、三次会の私のゲストは、あーちゃんとさくちゃんだ。だから、すべきことがある。スタッフさんに声をかける。
「友達とこっそり話したいことがあるので、奥使います。そのまま待っていてもらえますか。五分で済みます。終わったら、声をかけますから。」
「はい、かしこまりました。五分くらいでしたら、差しつかえありません。」
よし。これで準備はできた。
「あーちゃん、ごめん。ちょっと、さくちゃん借りるね。たっちゃんもここで待ってて。」
「え、今? さくちゃんだけ? 私はー? そもそも、着替えてから、二次会前でいいんじゃない? ね、さくちゃん?」
「いやー、バタバタしてて忘れちゃったら嫌だから。ほら、さくちゃん、お願い、こっち来てよー。」
「うん、いいけれど、急に何かな……?」
さくちゃんがついてくる。やっぱり断られた三次会、さくちゃんにも来てほしいもん。でも、無理はしてほしくないもんね。
「えっ、ここから先って、新郎新婦専用じゃないの?」
「お母さんとか普通に来てたし。いいのいいの。」
よし、スタッフもまだいない。さらに奥へと進む。こっちだよ。さくちゃん。
「ここ、新婦専用だから。誰も見てないよ。今のうち、使って。」
「……忘れるって、約束だったでしょ。」
「私のわがままで、ごめん。だって、三次会、来てほしいし。無理、してほしくないし。離れておくから。ね、使って。」
「……恥ずかしいよ。ありがとう。」
さくちゃんが、入っていった。お腹、空っぽにするんだよ。

二次会では、あーちゃんにさくちゃんの護衛を任せた。三年前のさくちゃんの人気ぶりと、飲まされすぎて頭痛かったみたいと、こっそり先に伝えておいた。これだけでも、さくちゃんは嫌かもしれないけれど、私の頭ではこの言い訳が限界だ。本当のことは、言えないもんね。そして、ついに三次会だ。これで最後かぁ。精一杯楽しむぞ。ここでの挨拶なんて、もう何の緊張もない。
「あーちゃんの結婚式で、あーちゃんっていうのはそこの明日香のことなんですけど、こういう、小さな三次会に呼んでくれて。すごくよかったから、私もしたかったんです。たっちゃんの親友みんなも、来てくれてありがとうございます。たっちゃんの昔話、いっぱい聞かせてください。あーちゃん、さくちゃん、私のことは、いいことしか言っちゃだめだよ! じゃあ、かんぱーい!」
さくちゃんと目が合う。さくちゃんは柔らかい満面の笑みで、グラスを傾けた。