水の巫女さまと隠しきれない秘密
- 水のご加護を賜る教会にて #3
- メリル様が執り行う、いつもと同じ礼拝。運命の悪戯が、それを忘れられない日に変えます。
今日は礼拝の日です。村のみんなにとって大切な礼拝は、私にとってもうひとつ違った意味を持っています。メリル様。私が物心ついたころに、先代の司祭様と交代でいらっしゃいました。大人たちの間でも、若くてすごい人が来たらしいと評判になったそうです。しかし、私のような小さな子にとっては、未熟な子供に向けられる優しさだけでなく、大人と同じように一つの人格として扱ってくださったのが何より嬉しいことでした。もちろん、すぐにメリル様のことが大好きになりました。それからかなりの時が経ちましたが、メリル様は変わらず素敵です。
今日は後の番なので、朝を少しのんびり過ごしてから、教会へ向かいます。見慣れた景色です。昔走り回って遊んだことを懐かしく思う人はいても、胸を高鳴らせる人はほとんどいないでしょう。あのとき、必死で教会のお手洗いに走った私とシルヴィア。そのあとに起こったこと、聞いたこと。それが、私に言えない趣味を植え付けました。今日も、メリル様は私の前で後の儀式をなさいます。それから……うん、やっぱり、相談会に行きたい。メリル様とお話したい。何を相談するか、急いで考えましょう。
着くと、今まさに扉が開くところでした。前の礼拝を終えた人たちが出てきます。それを待って、礼拝堂に入ります。ほかに、誰もいません……!
「あら、ミリィさん、今日もお早いですね。」
「あ、その、教会のこの雰囲気が好きで、始まるまで待っているのも好きで……。」
たいてい、誰かしらは同じように早めに着いていて、気兼ねなくお話しできないことを残念に思っていました。でも、いざ本当に私たち家族だけ、他愛のないおしゃべりができるとなると、結局、何を言えばいいのかわからないのでした。
「ミリィさんは、周りをしっかりと見る力と、それを感じる力があって、素敵ですね。私も、礼拝堂にみなさまがいらして温まるときも幸せですが、まだどなたもいらっしゃらない静かな礼拝堂で、ひとり過ごすこともありますよ。似ていますね。」
「あ、そんな、えへへ……。」
私、こんなにしゃべるの下手でしたっけ。
「おしゃべりも楽しいのですが、ごめんなさい、後の儀式に向けて準備をいたしますね。」
あっ、メリル様が行ってしまう……もちろん、礼拝のために来ているのですから、当たり前です。短い時間でしたが、相談会で耳を傾けてくださるお姿とは少し違ったメリル様とお話ができて、私は幸せです。両親のことをすっかり忘れていたと振り返ると、礼拝堂に人が入ってくるところでした。
「ミリィ、司教様とお話しできてよかったわね。でも、司教様にはご準備もあるのだから、私たちは席に着きましょう。」
「はあい。」
小さなころは、メリル様大好きと公言して憚らなかった私ですが、さすがに長らくそういったことは口にしていません。こうして親から言われると、恥ずかしいものですね。席について、気持ちを落ち着かせます。
メリル様への高鳴る気持ちが少し落ち着くとともに、私の中にあるいけないものが、少しずつ顔を出してきました。前にメリル様の真似をしたとき、この時間にはちょっとだけ、したくなっていました。でも、それはまやかしで、立ってみると、もっと強い感覚がありました。もう、お腹からの声が止むことはありません。ずっと、おしっこのことが頭にあったのです。メリル様……。いけない想像は、あの日を境にこれまでよりもしっかりとした輪郭を持って迫ってくるようになりました。一方で、もし本当に祈りの水がなくならないのだとしたら、とても我慢などできないことも思い知りました。私の想像は、豊かになると同時に、寂しさもはらむようになりました。
頭の中を散らかしているうちに、儀式の始まる時間が来ました。メリル様が祈りの水を飲みます。私にとって後の儀式は、はじめのお水でさえ、飲むのには抵抗がありました。メリル様は、相変わらず美しい仕草で、盃を空になさいます。なんだか、礼拝堂が温かくなった気がします。神様の、メリル様の加護。私たちを守ってくださる力。私が邪な気持ちで座っていることが、申し訳なくて仕方ありません。招詞、私はあの日足を動かしてしまいました。もちろん、メリル様はそんなことをしません。お水はもう、加護に変わっていますから。ありがたいことです。でも……もしも残っていたとしたら、私ではつい動かしてしまった足を、メリル様は理性だけで静かに保っていらっしゃるということです。二度目のお水。交読。三度目のお水。お祈り。四度目のお水。このころには、頭の中はおしっこのことでいっぱいになっていました。メリル様は、儀式の最初と同じように落ち着いた様子で、盃を空にし、静かに台へ戻します。その心はきっと神様と村の平穏への気持ちで満ちているのでしょう。凛々しいお姿です。メリル様と私は、祈りの水とただのお水は、やはり違うのです。信仰の言葉、私は汚れた心を追いやって、神様のことを考えて、一緒に唱えました。祈りの水も五度目です。今、気持ちを清らかにしたはずなのに……思い出してしまいます。もう飲みたくないのにと、それこそ泣きそうだった私。やはり、変わらず清らかな振る舞いのメリル様。このお姿がもし、私が知ったあの感覚を隠しながらだったなら。飲みたくないのに、もじもじしたいのに、押さえたいのに、平静を装って飲んでいるのなら。お祈りの言葉を聞きます。本当は違うでしょうけれど、想像だけなのでどうか赦してください。私は、震えそうな水門を厳しくしつけながら、表には一切それを感じさせずに、お祈りの言葉を唱えるメリル様を見ていました。そして、最後の祈りの水です。もう、私は後のことを忘れて座ってしまいました。もちろん、メリル様にそのようなことはありません。祈りの水が溜まったりはしないので当たり前です。でも、メリル様がもし張り詰めたお腹を秘めていらしたとしても、同じように立ったままで柔らかく笑っていらっしゃることでしょう。
メリル様の合図で、歌います。それから、お説教を聞きます。しっかりとした、透き通るように美しいメリル様の声。私が真似したときには、弱々しく途切れとぎれにご本を読み上げるのがやっとでした。あのとき、無理をしてでもメリル様のような声を出そうとしてみればよかったな。どれくらい辛いのか、もしかしたら少しこぼれてしまうのか、試しておくべきでした。そうそう、私は前も押さえてしまったんです。もう、それくらい危うかったんです。目の前にいるメリル様が、もし、祈りの水を全部身体に留めていたとしたら、それはもうどれほどの強いお気持ちで隠し通しているのでしょうか。あぁ、メリル様。私は知りました。たくさん飲まなければいけなくて、隠さなければいけなくて、「お手洗いに行きたい」みたいな言葉とは根本的に違う、狂いそうな欲求にすべてを支配されるのが、どれだけ辛く、切ないのかを。けれどどこか、本当に狂わされてしまったのか、少し気持ちが高まってしまうことも。メリル様はどうですか。現実のメリル様と想像のメリル様は、私たちに語り掛けるお姿はまったく同じです。けれど、想像のメリル様は、身体からのとてつもない欲求を追いやりながら、頭の中がおしっこで支配されることに抗いながら、やっとの思いで私たちに話してくださっているのです。
礼拝が終わりました。
「えっと……、ごめんね、今日も、相談会に出てから帰ってもいい?」
「いいよ。いいけれど、お母さんやお父さんにも、相談したっていいんだからね。」
「あ、それはわかってるの。いつもいろいろ聞いてもらってるよ。ありがとう。そうじゃなくって、その……神様だけに聞いてもらいたいことも、あるでしょ?」
両親にも、心配させてしまっているかしら……。ごめんなさい。でも、メリル様のおもらし寸前の姿を想像したいなんて、親には、いえ、結局神様にも、告解してなどいないのでした。
「まあ、ミリィもそういう年頃ね。ゆっくり聞いていただいてもいいけれど、寄り道はしないようにね。」
あっ、お母さんも、私が恋愛相談してるって思ってるでしょう。でも、下手に心配されるより、その方がいいのかもしれません。
「今日もミリィは最後がいいのかい?」
「あー、ほかに最後がいいという人がいなければ、はい。」
「わざわざ最後がいいなんていうのは、ミリィだけだよ。」
「じゃあ、今日も最後でお願いします。」
「なんか、本当に大丈夫?」
「次の人が待ってるって思うと、つい気になっちゃって。最後なら、考えながら落ち着いて話せるんです。」
「なるほどねえ。そんなに気にすることないと思うけど……みんな、最初の番だって満足いくまで聞いてもらってるよ。ま、でも、ミリィがそれがいいなら。」
今日は少し多めで、八人です。この間の私は、最初の人が入ってくるよりも前に、すでにひどい格好をしていました。どう見ても、おしっこがもれそうな女の子だったと思います。今は告解室に一人、誰も見ていないからと。想像のメリル様はどうかしら。前までなら、一人になった瞬間にぎゅうぎゅうと前を押さえ、足を踏み鳴らすメリル様を想像していました。けれど今は、想像の中でさえ、あんなに苦しいお説教をまったくわからないように乗り切れるのなら、柔らかく椅子に座って、暴れまわるおしっこを出口だけで押しとどめて、待っていらっしゃるのかもしれないとまで思います。儀式は、まだ、いつも同じことをするなり、ご本の一部を読み上げるなり、そういったことの繰り返しですから、頭が真っ白でもできます。でも、相談会は、相手の話を聞いてそれに合わせた返事をしなければなりません。私はとっくに、おしっこのことしか考えられなくなっていました。変な言い方ですが、なんというか、やっとのことでトイレのことを考えられる、そうでなければおしっこ、みたいな……とにかく、それくらいどうにもならなかったんです。シルヴィアが目の前にいるはずなのに、前を押さえた私。明らかに短い時間でシルヴィアを追い返した私。メリル様は違います。じっくり話を聞いて、優しくお返事をくださいます。もうそろそろ、たった二人の相談会すら待てずに、私がトイレに駆け出すころです。あのとき、ふと私の目覚めが思い出されたのは、それだけ大切な記憶だということなのでしょう。もうそろそろ、もらしちゃったかな。あぁ、本当にもらしちゃったんですね、私……。
順番は進んでいますが、まだしばらく先です。この時間はいつも、あの日を思い返しています。メリル様と私とシルヴィア。この間我慢をしてみて、私は新しいことを思いつきました。今まで気づかなかったのが不思議なくらいですが、満水だった感覚と、間に合った解放感と、シルヴィアのおもらしと、メリル様のお言葉と、それぞれの記憶が強すぎたのでしょう。あれは礼拝のあとお昼ごろの出来事だったのですから、お手洗いの前で見かけたメリル様は、ずっとずっと待ち望んでいたお手洗いを済ませた直後のお姿だったのかもしれないのです。……いえ、ごめんなさい。はい。もちろん、都合よく考えてしまいました。お手洗いに行ける、やっと出せると心も身体も準備を始めていたメリル様を差し置いて、お手洗いを塞いだ私、おしっこをもらしたシルヴィア。突然のお預けで、噴水を作りかけながらも、必死で隠しながらお世話をしてくださったメリル様。大人も前を押さえてしまうことがあるというのは、告解室でのメリル様のこと。大人ももれそうになることがあるというのは、私たちにそう仰った、まさにそのときのメリル様ご自身のこと。私が前を向いてすぐに、ずっと、ずっと行きたかったお手洗いに飛び込んでいくメリル様。……やってみてわかってしまうのが、もしもそんな目に遭えば、たぶんシルヴィアのおもらしを見たら、一緒に全部出てしまうということです。祈りの水を全部溜めたまま、我慢できるわけがありません。ちょっと残念に思いながらも、想像なのですから。私はもう一度、思いを巡らせます。
やはり人数が多かったからか、もう一時を回ってしまいました。最後とはいえ、少し遅めです。気持ちがいっぱいでお腹は空いていませんが、両親にはちょっと悪いことをしたかもしれません。ドアが開きました。私の番ですね。立ち上がり、告解室のドアをノックします。
「どうぞ、お入りください。」
「失礼いたします。」
「ミリィさんは、いつも周りを気遣って最後まで待っていらっしゃいますよね。どうぞ、おかけになってください。」
申し訳ありません、違うんです……。ただ、私の想像が、少しでも長く我慢したメリル様を求めているだけなんです。私がおもらしをしてしまったのが十二時五十分ごろなので、一時間戻して十一時五十分、ということは、そこからあと一時間半近く経っています。うわあ。もしも祈りの水がメリル様のおしっこになっていたら……。今、こうしてにこやかに椅子をすすめてくださるご様子なんて、どれだけ強い気持ちを持って保っておられるのでしょう。もう、今すぐに滝のようなおしっこが流れてきてもおかしくありません。むしろ、祈りの水がおしっこにならなくても、四時間半くらい経ちましたから、普通の人ならおしっこがしたいんじゃないでしょうか。頭がおかしくなりそうです。私の中で、やはりお姿のとおり穏やかな気持ちでお話を聞いてくださるメリル様と、祈りの水はないけれど、四時間半のおしっこを我慢しながらお話を聞いてくださるメリル様と、祈りの水が溜まって、もうどうやって我慢しているのか想像もつかないほどのおしっこをお腹に隠したまま座っていらっしゃるメリル様と……。お机が少しだけ邪魔ですが、メリル様のお姿をできるだけ、目に焼き付けます。
「どうでしょうか……それで、まだお悩みのようでしたら、来週も後の番に振り替えて、いらしてくださったらと存じます。」
出まかせの相談が、私がどんな反応をしていたのか、メリル様を困らせてしまっていました。ごめんなさい。
「はい、そうしたいと思います。ありがとうございます。」
「お力になりきれなくて申し訳ありませんが、一週間ゆっくりと、試してみてください。気をつけて、お帰りになってくださいね。」
「いえ、そんな、とても学びになりましたし、心も楽になりました。ありがとうございます。」
立ち上がり、お辞儀をして、お部屋を出ましょう。ドアの前で、もう一度お辞儀をします。
「主のお導きがありますように。」
告解室のドアを閉めました。いくらなんでも、想像の世界に入り込みすぎました。親身になってくださるメリル様に申し訳ない……。想像の頻度も考えないといけませんね。帰りながら、少し頭を冷やしましょう。
礼拝堂を出て、道を下りはじめます。少なくとも、今日の帰りは原っぱでの想像はなしです。そう思っていると、道でもなく、その原っぱをこちらに向かってくる影が見えます。なんでしょうか。道の方が歩きやすいと思うのですが。私がさほど歩かないうちに、その姿がはっきりしてきました。小さな女の子が、必死で走ってきています。そして……右手は、前を押さえつけています。私がよく知っている姿です。もれそうなんだ。私みたいに、言えなくてずっと遊んでいたのかな。……いえ、反省すると決めたんです。私は改めて、帰る方へ向きなおりました。いかにも、もうギリギリそうでした。間に合うのかな。一人だったから、大丈夫かな。一人で遊んでいたのかな。お友達が一緒にいたとしたら、その子はしたくないのかしら。そういえば、私も朝起きてすぐを最後に、お手洗いに行っていません。自分も少しくらいしたい方が、想像が捗るからです。もちろん、それなりに感覚があります。いつもはそのまま過ごしているだけです。まだ数分も歩いていないし、反省のひとつとして済ませて帰ろう。いつもは当たり前のように我慢していても、すると決めれば結構な欲求に思えてきました。私は踵を返して、小走りでお手洗いへ向かいます。ちょうど、さっきの子がお手洗いに飛び込んでいくところでした。私も道を離れて、原っぱを真っすぐに進みます。少しして、離れの扉が開きます。すぐに出てきましたから、間に合ったのでしょう。よかったね。その子と擦れ違います。晴れやかな顔です。これは、教訓になっていませんね? 大人だって我慢すればもれそうになっちゃうんだから、小さなうちは気をつけるんだよ。心の中でつぶやきながら、私も離れの扉を開きました。
この趣味に気づいてから、教会のお手洗いを使うことはありませんでした。もちろん、メリル様のことを考えるために、私も少しはしたくなっていたかったからです。記憶よりも狭く感じますね。まずは洗い場。お水が汲めて、手も洗え、ものを洗う場所もあります。すぐに汚れてしまいそうなものですが、メリル様が丁寧に掃除なさっているのか、その思いがみんなにも伝わっているのか、とてもきれいです。撥ねた水の跡すら、台のすぐそばにしかありません。あ、ということは……さっきの子は、こぼさずにお手洗いまで間に合ったのですね。よかったよかった。さて、たった四歩ほどで、お手洗いのドアがあります。開けると、あの日シルヴィアから勝ち取ったトイレが、今もありました。こちらも、共用のお手洗いとは思えないほどきれいです。さっきの子、あんな様子だったのに、上手に使えてえらいですね。私はあのとき、汚してしまわなかったかしら……。ドアを閉めて、鍵をかけます。そういえば、洗い場の方に鍵がないことも、このお手洗いを使わなくなった理由の一つだったかな、などと考えながら、しゅううう、しいいぃー。少しほっとします。やっぱり、けっこう我慢していたのかも。思ったより出ますね。それとともに、気持ちも軽くなっていきます。水を流して、服を整えます。帰りましょう。ああ、でも、このお手洗い、やっぱりいけません。反省したつもりだったのに……いつもメリル様がお使いになっているんだなと、考えてしまいます。いらしてからこれだけの日が経っているのだから、それこそ、一度くらいは大慌てでここに駆け込まれたことも、なんて。
がちゃ、ばたん。たっ、たっ、たっ、たっ。えっ、何? がちゃん! 目の前にあるドアが大きな音を立てます。鍵も確かめずに、思い切りドアを開けようとしたのでしょう。さっきの子のお友達かもしれません。慌てて鍵とドアを開けると、そこには、洗い場から出ようとする憧れの後ろ姿がありました。
「司教様?」
「あ、あら、ミリィさん。」
メリル様がこちらを向きます。メリル様も、礼拝と相談会が一息つかれてのお手洗いでしょうか。私が入っていたので、後にしようと戻られるところだったのでしょう。……あら、でも、今お手洗いに入ろうとした人は、鍵も確かめずに、強くドアを引いたのでした。あの子のお友達は? 状況が整理できないままですが、ともかく私の用は済んでいますし、ここにいらっしゃるのはメリル様です。
「司教様、お手洗いですか? どうぞ。」
私はトイレを離れ、出口へ向かおうとします。
「あ、いえ。」
たし、たし、たし。床から音が聞こえます。メリル様のローブが動きます。
「えっ?」
つい、変な声を出してしまいました。メリル様の顔が引きつります。メリル様のローブが動きを止めます。メリル様は何も仰いません。数秒、無言で見つめあったでしょうか。
「で、では、失礼いたしますね。」
そう言いながらメリル様がこちらへいらっしゃり、私はなんとか横に避けます。いけません、居座るのはいけません。出ましょう。私も反対側へ歩き出します。その瞬間、何かが目に入りました。洗い場の横。先ほどまで、メリル様が立っておられた場所。床が小さく濡れているのです。どうして? 頭の中で、全てがつながりました。稲妻が走るようでした。鍵も確かめず開けられようとしたドア、見当たらないあの子のお友達、揺れるローブ、そして床。メリル様が個室のドアを閉める音がします。私のはしたない心が、私を振り向かせます。それは点々と、個室のドアまで続いています。ああ、メリル様。私は、一瞬の誘惑に負けました。何が起きているのか、私が導いた答えは正しいのか、確かめずにはいられなかったのです。私は扉を開け、その場に留まったまま、しっかり音が鳴るように閉めました。そしてそっと聞き耳を立てようと、……するまでもありませんでした。不自然なほど、ドアを閉めた途端にです。靴が床を踏みかえる音が聞こえます。荒い吐息が聞こえます。衣擦れの音が聞こえます。ぶしょおおおお、しょおおおお! すごい。一体どれほど、どれほど我慢していらしたのでしょうか。メリル様。あまりの欲求に、鍵もお確かめにならなかったのですね。そして、不運と過ちに気づき、その場を去ろうとなさったのですね。けれど、もう後始末も済ませていた私は、あまりにもすぐにドアを開けてしまったのですね。取り繕う余裕もなく、足を踏み鳴らしておられたのですね。私の声で我に返り、必死に隠しておられたのですね。けれど、もう済ませるつもりでいらしたお身体は、少しずつ、こぼしてしまわれたのですね。だから、私が出る前に、こちらに歩いてこられたのですね。まだ音はやみません。メリル様。九時の礼拝から、四時間半ですね。メリル様ほどの素敵な大人が、ただお手洗いに行かなかっただけでは、こうはなりませんよね。こんな音をさせながら、ここまで長い時間、出ませんよね。メリル様。祈りの水は、祈りの水は、やっぱり……。いつごろからですか。いつごろからお感じになって、高まられて、そして頭がいっぱいになられたのですか。少なくとも、私の相談はついさっきです。私、試したのでわかります。狂おしい欲求のはずです。気づきませんでした。今にも噴き出しそうなおしっこを隠したまま、あんなに素敵に、優しく、私とお話ししてくださっていたのですか。
いつのまにか、水音は終わっていました。衣擦れの音、靴の音、水を汲み流す音。どうしよう。今、扉の音がするのは変です。でも、ここに私がいるのはもっと変です。逃げないと。でも、こんな真似をして、逃げていいのでしょうか。私はとんでもないことをしてしまったのではないでしょうか。がちゃん。目が合います。メリル様の顔が凍りつきます。こんなお顔をさせてしまった。メリル様に。
「あっ、あ、メリル様、メリル様、ごめんなさい、ごめんなさい。罰は受けます。でも、どうか、私の話を聞いてくださいますか。」
「……ミリィさん、どうか落ち着かれてくださいね。まず、あなたはただここにいらっしゃっただけです。罰を受けねばならないようなことは、何もございません。」
「ですが、私は。」
「いいんですよ、落ち着かれますように。まず、落ち着きましょう。ゆっくり息を吐いていただけますか。」
「はい……。」
私は泣きそうになりました。明らかにおかしな私に、こんなに優しくしてくださるなんて。私はなんということをしてしまったのでしょう。
「何か、聞いてもらいたいことがおありなのですね?」
さっき、聞いてほしいことがあると言ったのは私なのに、何も言えません。
「あらあら、初めてお会いしたときのミリィちゃんに戻ってしまったみたいですね。お時間が許すようでしたら、ついていらしてください。」
メリル様は、手を洗った後、洗い場を出ていかれます。私は、してしまったことの重さに視界を歪ませながら、メリル様の後ろをついていきました。
「はい、どうぞ。」
「いただきます……。」
メリル様が、ハーブを浮かべたお水をくださいます。ごくごく。すっきりして、少し視界がはっきりした気がします。
「ここは告解室ではございませんが、どこであれ、主は私たちの言葉にお耳を傾けてくださいます。……それとも、主には内緒にしておかれたくて、私にだけお伝えになりたいのでしたら、主は慈悲深いですから、きっとその間お耳を塞いでいてくださいますよ。」
「あの……。私は、いけない子です。」
メリル様は、何も仰らずに小さく首を横に振られたあと、優しく微笑まれました。
「私……、告解します。その……司教様に、司教様だけに。」
今まで、ごめんなさい。私はこれまで、ずっと、ずっと……その……司教様のことを、邪な目で見ていました。司教様はお忘れかもしれませんが……昔、私とお友達とで、司教様にお手洗いのお世話になったことがあります。そのときは、それだけだったのですが……。しばらくしてから、ふとそのときのことを思い出したりして、私が限界だった感覚と、お友達のことと、そして大人でも……そうしたことがあると聞いたことが、忘れられなくなってしまいました。その、私は……お手洗いを、我慢しているところや失敗しているところが、その……気になって、仕方がありません。ときどき、自分で、お手洗いを控えることも、あるくらいです。あの、私は、神様のことを本当に、大切にしています。その気持ちは、こんなお話をしておいてですが、信じてください。だから、もちろん、儀式のことも、祈りの水が加護に変わることも、信じています。でも、こんな……こんな趣味を持っている私に、目の前で、あんなにお水を飲んで、長い時間……そんなの、そんなの、想像、しちゃうじゃないですか……! 私は、本当は違うとわかっていながら、どこか空想の司教様を作って、そのお姿を見ていました。もしあのお水がお腹に残っていたら、こんなにお辛いのではないかとか、礼拝堂からみんなが帰った後どんなご様子だろうかとか、お手洗いまで間に合うのかどうかとか……。本当に、どれほどの感覚なのだろうかと、同じようにお水を飲んで、我慢したこともあります。それが、本当に大変で……。相談会が始まるはずの時間くらいで、もうどうにもならなくなってしまいました。そのことで、万が一にも、祈りの水がお身体に残るなんていうことはないんだなって、学んだつもりでした。いつも司教様は、私がそんな気持ちを隠していることに関係なく、本当に親身に、相談に乗ってくださいました。あっ……相談も、もちろん悩んでいないわけではないのですが、むしろ、司教様と同じ時間を過ごしたかったという気持ちの方が、大きかったのです。それなのに、本当に心から私のことを考えてくださって、こんなことではいけない、少しずつでも直さなければと思って過ごしていました。本当にごめんなさい。誰かがお手洗いに入るのに、洗い場にいてはいけないことは、わかっていたんです。でも……。あの……。床を、見てしまって……。それで、まさか、と思って、頭がいっぱいで、私は、誘惑に負けて、その場に残ってしまいました。司教様にとって、真剣な、大変なことなのに、私は、私は……。
「顔をお上げになってください。」
私が言葉に詰まると、メリル様が、声をかけてくださいました。優しいお顔です。怖い。何を言われるのか。私が悪いのに、あんなにいつもよくしてくださったメリル様にとんでもないことをしたのに。お返事が怖くて、どう言うべきかを考える余裕もなく、話し続けてしまいました。私が我慢してみたことなんて、言うべきではなかったように思います。
「誰も、心の中で思うことを咎めることはできません。ですから、それにかかわることはすべて、赦されました。」
声が出ません。そんな、いいのでしょうか……。
「相談会も、深刻でなければいらしてはならない、などということはございません。何をお話しになってもよいのです。たとえば、奥様に先立たれた方が、世間話をしたいといらっしゃることだってございますよ。ですから、赦されました。」
ありがとうございます、と言ったつもりですが、ほとんど声にならなかったかもしれません。
「そして今日のことですが、ミリィさんはその場にいらしただけです。はしたない真似をしたのは、むしろ私です。ミリィさんが外へ出られる間待つこともできず、床も汚してしまいました。そのために、ミリィさんを悩ませてしまいました。謝るべきなのは私の方です。」
「そんな、違います! 悪いのは私です!」
「どうしてもそうお感じなのでしたら、私から一つのお願いと、もう一つお聞きしてみたいことがあります。お願いをお守りいただき、お話につきあってくださることで、お互いに、それで十分。これで、いかがでしょうか。」
私は涙を止められませんでした。ごめんなさい、ありがとうございますとうわごとのように繰り返していると、メリル様は立ち上がり、ハンカチを渡してくださいました。落ち着かなきゃ。メリル様からお話があるのですから。
「どんなことであろうと、お約束します。仰ってください。」
「まず、お願いを申し上げます。今日ご覧になったこと、そして祈りの水が加護の力を果たしたのちにも私の身体に残ることは、どなたにも、ご両親でさえ、仰らないでください。」
「はい。神様に誓います。」
「では、もう一つは純粋な質問をいたします。気を遣って返事をすることがないように、心のままにお返事していただきますように、お願いいたします。ここで、負い目があるからなどと、答えを歪めてはなりません。」
念の押しように、緊張が走りました。私は何を尋ねられるのでしょう。
「ミリィさん、あなたはご本の勉強にも熱心でいらっしゃいましたよね。相談会でも、ご本のことをよくお尋ねでした。」
「はい。その……もう一つの目的もありましたが、ご本のことは真剣に勉強したいと思っていました。」
「わかりました。それでは問います。あなたは、主の教えを広める司祭になるべきものとして学び、そしていずれは水の巫女となり、生きようとは思いませんか。」
一瞬、何を言われているのかわかりませんでした。
「水の巫女、私が、ですか……?」
「ミリィさんは、もしそのお気持ちがあるのなら、きっと水の巫女に向いていらっしゃいますよ。」
「その、それは、あの……。」
「ミリィさんはもう、すべてをご存じですから、はっきり申し上げてしまいましょうか。水の巫女。任された教会で、その地にいらっしゃるみなさまと、その地そのものの繁栄を願い、守る、尊い役割です。そして儀式では、祈りの水をいただいて、お昼まで席を立てず、耐えがたい欲求に苛まれていることを誰にも悟らせることなく、過ごすということです。」
「あ……私は……。」
「済ませられずにいることが純粋な苦痛でないのなら、それはきっと、主のお導きなのではないでしょうか。ミリィさんはとても真面目な方ですから、ご自身のそうした気持ちを叱っておられるでしょう。ですが、私も肉体を持つのですから、やっと済ませることができたときの感覚は……無心ではないとだけ、申し上げておきます。ですから、ミリィさん、今日のことも、今日に至るまでのあらゆることも、あなたは赦されました。お返事は急ぎませんから、水の巫女として生きる道を、考えてみてください。その……離れを掃除しなければなりませんので、今日はこれくらいにいたしましょうか。」
何も言えず、小さく頷き、私は司祭館を後にします。どんな表情をしていたでしょうか。顔が熱くなります。私が、メリル様と同じ水の巫女に……! 私は帰りながら、今にも噴き出しそうな、狂おしい欲求を完璧に隠して、にこやかに相談会を終える自分を、何度も何度も思い描きました。